女性マジシャンとしての紆余曲折
女性マジシャンとしての紆余曲折
14歳の頃にCMオーディションで準グランプリを受賞してデビュー。
その後、演劇・パントマイム・ジャグリング・サーカス・大道芸など様々なパフォーマンスの知識を習得しました。
マジシャンとしてお仕事をするようになったのは六本木にある老舗のニューハーフショーの出演者募集がきっかけでした。
当時は世間に浸透していなかったジャグリングを(浸透していなかったがゆえに)演出家に 「マジック」 と勘違いされ、いきなりショーハウスの専属マジシャンとしてデビューいたしました。
それからも、即興劇(インプロ)、プロレス・お笑いなど、様々な経験を経て、現在のパフォーマンスがあります。
ずっと芸の道をひたすらに歩んでまいりました。これからも独自の表現を追求していきます。
今まで、出会ってくださった全ての方々に感謝しています。
簡単なプロフィール・今までの経歴
お笑い 女性 マジシャン 荒木巴(あらきともえ)
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新潟県生まれ。
14歳でロッテのCMオーディションで準グランプリを獲得し、デビュー。
高校では演劇部に所属し、自らが主演を務めるオリジナル作品で関東甲信越大会にて優秀賞を獲得、全国大会に出場。高校卒業と共に上京し、劇団青年座の養成所に入学、演劇の基礎を学ぶ。卒業後はサーカス劇団に入団。マジック、パントマイム、ジャグリング、玉乗りなどの芸を習得、19歳でギリシャ4都市公演や、旧ユーゴスラビア(現在のセルビア・モンテネグロからベオグラード)での孤児難民施設公演など海外公演に多数出演。21歳でフリーになる。
退団後は舞台の仕事が全く来なくなり、大道芸で路上でチップをもらい生活をする。悪戦苦闘の中、インパクト重視のマジックとキャラクターを制作。お笑いライブにも出演し始める。その後、ピン芸人の大会「R-1ぐらんぷり」においてマジシャンで初の準決勝に進出。お笑いブームに乗り、「エンタの神様」や「あらびき団」などの人気番組に出演。東京都公認のヘブンアーティストに選ばれる。イベント出演の依頼が全国からくるようになり、多い年で年間400回のマジックショーに出演。2010年、株式会社サンミュージックと業務提携を結ぶ。企業懇親会の余興では100業種、1800社以上のレセプションパーティに出演。
だが、2011年3月11日の東日本大震災によって、決まっていた仕事が次々と中止に。「笑いは不謹慎だ。」という風潮の中で芸の必要性について考えるようになる。2012年、大阪芸術大学に入学。芸術や大衆芸能の歴史・変遷について学ぶ。漫画家さんを中心とするNPO法人のメンバーとして、全国の情緒障害児短期治療施設での訪問公演に参加。2012年の宮城刑務所慰問公演、2014年の亀有警察署での一日警察署長ではパフォーマンスに防犯講話を取り入れ、感謝状を授与。
エンターテイメントの力で世界を笑顔にできると信じ、日々邁進中である。
お笑い 女性 マジシャン というジャンルについて
荒木巴は、「日本で唯一のお笑い 女性 マジシャン 」 という肩書でお仕事をしています。
「日本で唯一~」というだけで何となく 「すごい!」 感じがいたしますが、、
お笑い系の女性マジシャンがほぼいない時から、お笑い×マジック を掛け合わせを模索してきました。
おかげさまでお笑いブームの時はフリーランスでありながら、「エンタの神様」 や 「あらびき団」 などの人気番組に出演させていただき、ピン芸人の日本一を決める大会 「R-1ぐらんぷり」 にも開催間もない第二回目からエントリーをはじめ、マジシャンで初となる準決勝進出、セミファイナリストとなりました。(一回戦のシード権は現在まで保持しています。)
お笑いブームで女芸人も随分と増えましたが、その頃はマジシャンもお笑い芸人も 「女性」 がとても少なく、男性社会でつらい目にあうこと、理解されない事もとても多かったです。
その中でもがきながら今日までやり続けたのが、「お笑い 女性 マジシャン 」 というジャンルです。
自分で作った言葉が時の流れと共に徐々に浸透して、「日本で唯一」と名乗らせていただいています。
ある意味でオンリーワン、独自のパフォーマンスを今後も失敗を重ねながらも挑戦し、もっともっと面白くなれるよう試行錯誤しながら創造してまいります!
今後も応援を宜しくお願いいたします。
お客様に楽しんでいただけるよう、今後も精進し続けます。
世界14カ国!5000回以上のマジックショーに出演!
おかげさまで、企業様のイベント出演は100業種・1800社を突破しました。
出演ご依頼をお待ちしております。
ご相談やお見積りを無料で行っております。
ご質問やご不明な点など、お気軽にご相談ください。